2024年11月23日
フレーズ感
この時期、かつてのNでは毎年恒例の行事に向けて練習を重ねていた。毎回自信を持って臨んでいたが、本番では満足する評価をいただけないことが続いていた。
当時の練習の内容を振り返り、何が足りなかったかを考えてみた。歌い込みはできていたが、ただ繰り返し歌うだけで曲の音楽的な解析が不十分だったのではないかと感じた。
そこで新たなアプローチとしてフレーズ感を意識してみた。曲の中でどこからどこまでが一つのフレーズなのかを考え、アクセントを置く部分や盛り上がるところ、落ち着くところを洗い出し、全員で共有した。
その過程で、フレーズが続いている途中で全員が息継ぎをしていたり、ゆっくりするタイミングがパートでまちまちだったりすることに気がついた。そこを改善することでわずかではあるが表現力が高まった気がする。曲の細部にまで手を入れていけば、より立体的な音楽が作れるかもしれないと期待している。
これまでNやGで何度も見たステージからの景色を、今度はYで見ることになる。楽しく歌うことに重きを置いていた我々の力がどこまで通用するかわからないが、自分たちの音楽を信じて歌うだけである。
2024年11月17日
終わりよければ
今年の一大イベントが終わった。
思い返せば、どうしても歌いたいわけではないが過去の経験があるので歌えるからと、やや後ろ向きな気持ちを持ちつつ参加したが、何度も練習を重ねて少しずつ自分のものにしていき、今日解放することができた。
個人としては喉が軽くて調子良く歌えたし、お客さんも満足していただいたと思うが、パートとして中身を見た場合、大成功だったかどうかは少し疑問も残る。
高い音が出ないのはまだしも、全く違う音が頻繁に聞こえてきたのは何とも言えないものがあった。大人数だから許されるものではないと私は思うが、それを指摘できるかと言えばそれも難しい。練習中も気になっていたが言える権限もなくそのままだった。そこがこの集まりの弱点とも言える。
踊りでも、皆が一糸乱れず踊るようなものもあれば、それぞれが自己流でなんとなく合わせて踊るものもある。今回の集まりは後者であると割り切れば、全体としてはまあ良かったかなと思える。
私は休む間もなくまた次のイベントに向かって進んでいくわけであるが、緻密な音楽に疲れた時は、こういう結果オーライで発散できる音楽を思い出してリフレッシュしたいと思う。
2024年11月15日
人に頼る
「人にどう頼っていいのかわからない」という言葉を耳にすることがある。
その背景として、自分でやった方が早いというものがある。これは自分にもよくある。人にあれこれ指示してちゃんとできているか気にするくらいなら、自分でさっとやってしまう。
また、人を信頼できない場合も自分でやってしまうだろう。
これらは頼れないというよりは頼らないと言った方がいいかもしれない。
相手にお願いするのが申し訳ないという気持ちから頼れない場合もある。相手の気持ちを慮るが故に自分で抱えてしまうことはありがちである。自分のことは後回しにして相手のことをまず考える、この気持ちもよくわかる。
頼ってほしいと思う側からすれば、少しでも相手を助けて楽にしてあげたいという気持ちがある。自分に余裕がある場合や、相手より年長だったり経験が長い場合にそう思うだろう。相手の状況を見て全部引き受けたり、自分のできる範囲で手伝ったりする。
困ったことがあったら相談してほしいと声をかけることもあるだろう。いろいろなシチュエーションが思い浮かぶが、本気で心配したり、相手との距離を縮めたいという気持ちだったり、時には社交辞令のこともある。
どこまで頼っていいかわからない場合は、どこまでなら自分でできるか考えてみる。相手に頼れない人は自分で全部できると思うのかもしれないが、ここまでと区切りをつけたり割り切って考えることも時には必要である。
相手に申し訳ないという気持ちは、お互いさまと言い換えたい。今は手伝ってもらうけど、次は自分が手伝えばよい。
自分を客観視できると、1人で抱え過ぎるのがいかに効率的でないかがわかる。チームで行う作業なら尚更である。
今の自分にできることとできないことを見極めることは大切である。その時によってできる範囲は変わるだろうが、できないことは人に任せてもいいと思う。
自分を解放して肩の荷が下りると、1人で全部やる必要はないことに気づけると思うのだが、こういう人は往々にして自分を解放できないという印象があるのは気のせいだろうか。
2024年11月14日
合唱の伝道師
最近の小中学校の合唱の様子を人から聞いた。
想像はしていたが、そういうことなんだと思った。演奏を自分で聴いていないのでこれ以上は書かないでおく。
昨今の教育現場の様子は報道で知ることができ、音楽教育もその延長線上にあるだろう。
しかしこれだけ合唱の世界にいながら、身近な子供たちの合唱のことが聞こえてこないのは、我々と関わりのないところで行われているからだと言えるかもしれない。
おそらくは校内の合唱コンクールは今も存在しているだろう。市の音楽会で合唱の発表もある。
合唱という行為は行われているのだが、それが学校行事の一つに成り下がっているのではないだろうか。
行事に成り下がるという言い方には語弊があるだろうし、一生懸命やっている人達に対して申し訳ないが、往時を知り合唱が生活の一部になっている者にとってはそういう思いがある。
合唱部がある学校は限られているが、合唱をやっていない学校はないはずである。合唱の持つ本来の楽しさをぜひとも子供たちに教えてあげてほしい。そのためにはまず教える立場の人が楽しさを知ってほしい。そのお手伝いはいくらでもできる。上から目線で申し訳ないが、それくらいの経験はしてきたつもりだ。
2024年11月10日
祈り
天空の聖地までやってきた。
ここはいわゆる門前町である。なぜ辺鄙なここに開かれたのかは、歴史の専門家ではないので他に譲ろう。有名な観光地であるので外国人も含めて人通りは多い。
それでも車道を外れ、石畳の道を進むにつれて厳かな気配が漂ってくる。歴史上の人物から一般大衆まで全国津々浦々からこの地に縁を求めてきたのは、やはり開祖の力によるものだろう。
私がここに来た理由は、自然の中で何某かの癒しを得たい、行ったことのない所に行きたい、たまたまタイミングが合った、からである。
はるばる来た聖地であるから、迷い、悩み、葛藤などに惑っているであろう人たちのことを思いながら足を進めた。橋を一つ越えれば世俗から一旦離れる。古い歌の世界では世俗曲と宗教曲は紙一重だが、ここでもそうだ。一時無心になって祈りを捧げた後、またすぐに世俗に戻った。宗教で成り立っている土地はどこもそうであろう。
相手を気遣ういたわりの言葉でさえ、時と場合によっては心に突き刺さる刃物となる。だから今は何もしない。何も言わない。せめて祈ることで気持ちが緩やかに届くことを願う。
2024年11月06日
意見を出し合う
ただ曲を何度も流して歌う練習から一歩進めて、自分が気になることを一つずつ確認していくような練習だった。
全部を楽譜通りではなく、楽譜に書いてあることをいかに自分たちの表現にしていくか、意見を出し合いながら確認した。
こういう練習はNでは普通だった。あんまり自分がしゃしゃり出てはいけないが、何か言わないと沈黙が続くので、思いつくことを言った。
大胆な強弱がない分、さらっと同じ調子で流れてしまうので、どこに向かう強弱なのかを楽譜を先読みしながら歌う必要がある。速度も劇的には変わらないが、10%ほど速くなったり遅くなったりする指示があるので、微妙な速度変化をいかに表現するかがポイントとなる。
指揮がない分、自分で考えながら歌わないといけない。その考えも一人一人が違っていてはバラバラになるので、同じ考えになるように確認しながら進める必要がある。
手を入れたいところはまだたくさんある。取り出して練習したいが、メンバーからは今までのように何度も流して歌いたい気持ちも見て取れる。次回は確認したいところをピックアップして練習しつつ、全体の流れも見ておきたい。
2024年11月02日
通過点
懸案のところは劇的に改善したわけではないが、おまじないが効いたのか概ね好評のようだった。自分としてはもっと劇的にやれると思うが、今はこれが精一杯だろうか。
対になる曲はもっと歌っていい。透明感はあるが、薄いお茶漬けみたいで自分としてはもっと味つけがほしい。まあ対比という考えもあり、濃いものの後はあっさりしたものがかえって合うのかもしれない。一段落したらハモる声をポイントに作っていけたらいい。
練習よりもわずかに走るのは、鼓動が少し速くなっているからかもしれない。落ち着いて周りをよく聴き、自分たちの響きを楽しみたいところである。今日は普段の練習では聴けない声を聴けてずいぶん楽しめたので、明日は会場の雰囲気を楽しみたいと思う。
これで区切りはつくが、終わりではない。何度も繰り返せるのが学生と違うところである。次の構想(妄想?)にワクワクしながら明日を迎えるとしよう。
2024年10月31日
到達点
到達点の見えぬままもがいたところで
どこまで行っていいのやら
それだ!というのはあるのか
自分なりに考えて考えて
自分なりのそれだ!を否定されれば
次のそれだ!はない
それでもやれと言うのなら
理想に近いやつがやればいい
みんなでやれと言うのなら
理想に目をつぶってやればいい
どこまで行っていいのやら
それだ!というのはあるのか
自分なりに考えて考えて
自分なりのそれだ!を否定されれば
次のそれだ!はない
それでもやれと言うのなら
理想に近いやつがやればいい
みんなでやれと言うのなら
理想に目をつぶってやればいい
2024年10月30日
演奏会はショーか発表会か
演奏会も一日一日と迫ってきて、暗譜やら立ち位置やらステージの流れやらを考えつつ慌ただしい毎日を過ごしている。
Bでは演奏会はショー的な位置付けだったように思う。聴きに来てくださるお客さんを飽きさせないようなステージ構成だったり、一切アナウンスのない演出だったり、毎年工夫していた。
演奏会で歌いたい曲を巡って指揮者と団員でせめぎ合ったり、演奏会の一切を取り仕切る実行委員長を持ち回りで受け持ったり、ホールでの通し練習日を入れたりして、演奏会ありきの練習だった。
充実はしていたが、単純に歌うだけではない演奏会を毎年開くことが重圧になっていたのは確かである。
Gでは10年に1度、それまでに歌った曲を集めて披露する演奏会を行ってきた。こちらは歌を聴かせることに徹したもので、ステージ作りから椅子並べまで自前でやる手作りの演奏会である。演奏会は節目のイベント的な位置付けになろうか。
Nでは初期に自前の演奏会を開いたことはあるが、自分たちが歌うことを楽しんできた。そもそもお客さんに聴かせるための選曲などはしていなかった。
Yでは地元で開催される合唱祭やコンサートへの出演を主な活動にしてきた。小回りがきくのでちょっと練習してさっと歌うことができる。レパートリーが変わらないので、過去のメンバーにお願いして臨時に歌ってもらうことができるのは心強い。
Hはというと、発表会に近い演奏会だと思う。演奏会は毎年行っているが、一年間練習してきた集大成という位置付けで、最近でこそ見せることにも力を入れているが、以前はステージの立ち位置でさえその時に決めるようなおおらかさがあった。
それでもリハーサルから演奏会への流れやステージ構成、受付対応など演奏会全体を細部まで確認するのは身が引き締まる思いである。
どの方向を向いているかは団体ごとに違う。それぞれの団の特長を活かしつつ、よそでやっていることを自団体の運営に当てはめることができるといいと思う。
2024年10月27日
歌い方の定着
練習も大詰めとなり、いよいよ熱が入ってきた。
指揮者はようやく表現の練習ができるようになったと話しているが、自分としてはあと1ヶ月早く仕上げてもよかった。それは、歌い方を定着させる時間も必要だからである。
この1ヶ月は暗譜に重きを置いていた。そのおかげで何とか覚えてこられたものの、練習のたびに表現が微妙に変わってきたのが気になっていた。
指揮で全てを指示することはできないので、練習で指示をいただくのであるが、歌詞や音の暗譜に精一杯で、表現の暗譜にまで手が回らないのが実感である。
これは歌い手の問題であるが、発声や呼吸、フレージングについては自分で気をつけないといけない。そこをいつも指摘されるのでその分表現を練習する時間が減る。ちょっとやればできるということは、最初から意識していればできるということだ。
歌い出しはその前から準備しておくこと、呼吸とフレーズを連動させること、フレーズの中のどこを目指して歌うのか考えること、これらがいつでもできれば、表現に十分気をまわすことができるだろう。